“十松屋”について | |||||||||||||||||||||||
「能楽扇調進所“十松屋(とまつや)”の出現」 “十松屋”は中世・応永年間(1394〜1424)の頃、能楽扇調進の商職人の屋号として京都に出現したと考えられております。観阿弥、世阿弥の時代、それに用いる扇を「十松屋某製す」と伝えられています。 |
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「“十松屋福井”の創業から幕末にかけて」 当家六代“知久”が 元禄16年(1703)八月十日“十松屋 又兵衛”氏より屋号と商職人株を継承し、十松屋福井を創業したと記録されております。尚、十松屋又兵衛氏の名は『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』元禄14年の記述に記載されています。 江戸時代、世の経済発展に伴い商売も安定的で繁盛していたようです。文化8年(1811)版増補の『京羽二重大全』には“観世舞扇、其の他諸流 調進所”として十松屋の名前が挙げられております。 |
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「明治から現代に至るまで」 明治維新の動乱期、従来からの職商人(しょくあきんど)にとって相当困難な時期であったようです。その苦難を乗り越え、大正時代に入り 十四代“芳敏(1890〜1975)”が東京両国美術倶楽部を会場にした『能楽書品展覧会』に参加させて頂きます。そのことが現在に繋がる大きな機会となったようです。当時を振り返った『芳敏記』には「画師や箔押砂子振り師など職人にも名人が多く、十分に吟味満足出来る商品を出品出来た」旨が記されており、「この会に私の十松屋も昔より名前ばかりでなく、実際に御客様方にも御面識を賜わり、非常に面目を上げしことと実感仕り」とあります。 その後、観世御宗家はじめ各流名家の御愛顧、わんや、檜 両書店様のお引き立てを賜り順調に営業を進めます。しかし、太平洋戦争が始まり「国家総動員法」に続き「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」が施行され、“ぜいたく品”とされたものは販売はおろか製作も禁ぜられる事態となりました。しかし、伝統工芸技術が全く絶滅してしまうことを防ぐ為、扇子司としては芳敏を含む三人のみ(他は 大西庄兵衛氏、中村清兄氏)が農商大臣より『工芸技術保存資格者(いわゆるマル技保存)』の認定を受け、営業の継続を許可されました。御蔭様で家業を中断することなく、細々ながらも営業を続けさせて頂けました。 終戦後、能楽界の復活に合わせて弊舗も混迷から立ち上がり、昭和33年に法人化“有限会社 十松屋福井扇舗”を設立。現在に至ります。 |
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